- 保護者の手記
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娘は2年保育で、幼稚園の年中から通っていたのですが、年長に上がる際クラス替えがありました。それまで仲の良かった子とクラスが離れてしまい、新しいクラスになかなか馴染むことができませんでした。「行きたくない」「お腹が痛い」と、毎朝訴えてくる娘に、私はだましだまし幼稚園のお迎えバスに乗せていました。
2ヶ月ほどして参観日がありました。 クラスの様子を見に行くと、娘は教室の後ろの方で、胸の前に片手をギュッと当て、険しい顔でお友達の遊んでいる様子を見ているだけでした。この表情を見たときに、私は初めて、娘がこんな状態で毎日を過ごしていたのだと知り、とても辛くショックを受けました。
それでも、私は今に慣れるだろうと考えたり、「今日は楽しかった」と言って帰ってくるかもしれないと思ったりしながら、嫌がる娘を無理やりバスに乗せていました。ただ、帰りのバスから降りてくる表情は、日に日に暗く険しく、能面のように無表情になっていきました。
その頃から、娘は夜中に突然叫びながら起きるようになりました。怖がる娘を抱いてあやし眠らせようとしましたが、朝が来るのが怖かったのだと思います。一度目を覚ますと、二度と眠ろうとはしませんでした。 次第に外が明るくなるのを感じながら、二人で夜を過ごす事もありました。それでも私は、朝になると、眠っていない娘を無理やりバスに乗せていました。「自分の子供が登園拒否なんて困る」という一念で、ただただ通わせることに必死でした。それは今考えるとよく分かるのですが、子どもの身体より世間体を気にしていたのです。
けれども、まだ5歳の子どもです。身体が限界に達したのでしょう。熱を出して、休まざるを得なくなりました。私は思い切って、相談窓口に駆け込みました。「もう、お嬢さんもお母さんも充分に頑張ったのだから、ゆっくり休まれたらどうですか?」と言われました。この言葉を聞いたとたん、肩の力が抜け、あきらめを感じました。
こうして、不登校生活が始まったのですが、私の恐れていたことは取り越し苦労でした。ご近所の方、娘の弟のお友達のお母さん方は、「お姉ちゃんも一緒に遊ぼうよ、外に出ようよ」と気さくに声をかけてくださいました。世間の皆さんは、とても優しかったのです。
下の子がまだ2歳だった事もあり、よく公園には一緒に連れて行きました。はじめのうち、娘は私の抱っこから降りることもできませんでした。それが、次第に地面に降りられるようになり、だんだんと弟の後ろをついて歩けるようになりました。 近所のお友達にも恵まれていて、幼稚園から帰って来ると、お友達が家に遊びに来てくれていました。
小学校に上がる時期が近づくと、私たち周りの大人は、環境も変わるのだし、学校へは通えるのではないかと期待しました。ランドセルや勉強机を買って貰い、本人もそれを背負って楽しそうにしていました。それで、1学期は何とか通うことができました。しかし、まだまだエネルギー不足だったのでしょう。2学期の運動会が終わる頃に再び通えなくなりました。
娘が3年生のとき、に今の状況をありのまま理解し、受け入れてくださる担任の先生との出会いがありました。その先生は「今のままで大丈夫ですよ。お母さんがやっている通りで大丈夫です。」と言ってくださいました。それは、私たち親子にとって大きな出来事でした。
というのは、その前の先生は突然家へいらっしゃるなり、「ちょっといいですか?」と部屋に上がられたことがあったのです。娘を見に対し「明日から学校へ来なさい。いいですね。待っていますよ。」とおしゃって訪問されるような先生でした。 だからなおのこと、理解ある先生との出会いはありがたかったです。
先生は2週間に1度、放課後時間を取って、勉強を教えてくださいました。娘のために書いた黒板は、「明日、子どもたちが来るまで消さないんですよ。昨日〇〇さんが学校に来て、勉強したとわかるようにです。」とおっしゃっていました。
宿題を出されて家でやり、2週間後に持って行き その場で丸付けをしてもらいました。時には、理科室で実験もさせてくださいました。また、「こんなのはどうですか?」とご自身が夏休みにお子さんと、玉川上水の水路を歩いた話をされ、時間のたっぷりある私たちに、玉川上水の始まりから終わりまでを歩くことを勧めてくださいました。私たち親子は、玉川上水全長43kmを10回ぐらいに分けて、お天気の良い日にのんびりと歩き、完歩しました。
その頃、公文の教室にも通い始めました。娘の不登校のことを話すと とても理解してくださり、「では〇〇さんは、皆より15分早く来てくださいね。」と言ってもらうことができました。皆がいる中に入るのは大変だろうけど、誰もいない状態から 一人二人と友達が増えていくのは大丈夫でしょうとの配慮からでした。はじめは先生と1対1での学習でしたが、少し慣れると両隣の席を空ければ 人がいても勉強ができるようになり、次第に隣にくっつくように人がいても、平気になったようでした。
残念なことに、私どもが住んでいる市には、適応教室のような不登校の小学生が通える場所はありませんでした。民間が設置されているフリースクールのような場所はありましたが、たまたま今は男の子しか在籍していないとのことで、娘にも伝えましたがそこに興味を示しませんでした。
小学生が昼間、学校以外で過ごす場所など無いのが、当時はまだ当たり前でした。下の子の幼稚園の送迎もありましたので、遠方まで行ってどこかに通うというのは、考えられませんでした。
5年生になり、新しい校長先生に代わりました。その先生は担任の先生を通して、すぐに私と話がしたいとおっしゃってくださいました。私も、色々な考えの先生がいらっしゃるので今回の先生はどうかなと緊張して伺いました。校長先生がまず私に聞いてくださったことは、「何が一番困っていますか?」 ということでした。私は「今の〇〇市には中学生の適応教室はありますが、小学生が通える場がなくて困っています。」とお伝えしました。すると、「分かりました。何とか小学生でも通えるように、お願いしてみます。」と言ってくださいました。その結果、市が特例で認めてくれ、中学生に混ざって週に2回通う事ができるようになりました。これもまた、娘の自信に確実につながったと思います。
その冬、私どもに一番の転機が訪れました。新聞の記事に翌春、不登校児を受け入れる公立の小中一貫校ができるとありました。“まあ、夢みたいな話だ“と驚きましたが、場所を見てがっかり。自宅からは、電車とバスを乗り継いで1時間半はかかる場所です。6年間も不登校だった娘が とても自力でそこまで通えるとは思えず、すぐに諦めました。
しばらくその話は忘れていたのですが、ある時、いつもの相談所のカウンセラーさんに 「そういえば、こういう学校ができるらしいですけど、うちは遠くて無理ですよね。」と話したところ、「この市からでも通われる小学生がいますよ。」と言われました。夢が目の前に降りてきたようでした。車で行ってみると、片道1時間で通えることが分かりました。これなら私が送り迎えをすれば済むので、娘に伝えると嫌だとは言いませんでした。
6年生の4月から、6年ぶりに毎日学校へ通う生活が始まりました。担任の先生は女性の先生で、生徒たちを まるで自分の子どものように接してくださいました。どの生徒も紆余曲折、様々な不登校時代を経てここに集まって来ています。大人に不信感を持つ生徒たちに、とにかく「学校に行くことが楽しい」、「自分の居場所がここにある」と、しっかりした安心感をもたせるために、先生はとても心を砕いてくださいました。
勉強といっても、もう何年も満足に机に向かっていない子どもたちばかりで、教科書に拒絶反応を示していたことから、ほとんどの教材は手作りで用意してくださいました。宮沢賢治の詩をプリントした厚いファイルが教科書でした。
体育の時間はドロ警。生徒たちが1番喜んでやっていた授業のようです。それまで、ほとんど1人で生活してきた生徒たちにとって、決して1人ではできない遊びを、身体を使って思う存分、楽しんでいる様子でした。もちろん、先生もその中に入り必死になって逃げ周り、本気になって一緒にやってくださいました。
家庭科の時間はおもに調理実習でした。毎回、作るメニューは一応決まっているのですが、子どもたちが途中から思い思いの案を出し始めるらしく、珍しい味になっちゃったと聞いた覚えもあります。ああでもない、こうでもないと楽しそうにやっている様子が目に浮かぶようでした。
担任の先生は前例が何もないところから、毎日、本当に手探りで生徒たちとかかわってくださいました。とにかく、歩き始めた子どもたちの歩みを止めないように 体当たりでかかわってくださいました。
ただ、長年不登校だった娘が、この学校に入学したからといって、テレビドラマのように、いきなり元気に友達と遊べるようになったわけではありません。入学当初は相変わらず、表情は固く笑顔は全く出ませんでした。それでも「行きたくない。」とは言いませんでした。本人もここで頑張るしかないと、覚悟はあったのだと思います。
教室の後ろにある1000ピースのジグゾーパズルを作りながら、何となく先生と話ができるようになりました。ジグゾーパズルは相手の目を見ないで、会話をすることができるので、コミュニケーションの手段として置いてありました。それで、次第にクラスの友達とも、関わりをもてるようになっていったようです。
本当に少しずつ少しずつ、表情が柔らかくなり1学期を終える頃、やっと白い歯を見せて笑顔が出せるようになりました。初めて、先生から「今日は、お嬢さんの笑顔が見られましたよ。」と教えてもらったときは、「ああ、やっと学校でも自分のありのままを出せるようになったのだな」と、胸が熱くなったのを覚えています。
また、この学校は先生以外にも生徒たちと比較的年齢の近い、若いスタッフの方たちがたくさんいらっしゃいました。スタッフさんたちも不安そうな生徒には、優しく声をかけ生徒たちに寄り添って対応してくれました。 娘がクラスでは何となくお弁当を食べたくない時期、スタッフさんがいる部屋で、半ばスタッフさんの休憩時間でもあるのに、一緒に食べさせてもらっていました。どんなときにも自分の居場所を見つけられたのは、とても大きなことだったと思います。
こうして、4年間をこの学校で過ごし、高校へは一般受験で公立高校に入学しました。受験勉強は少人数の塾に通い、地域の中学生と混ざって懸命にやっていました。娘は高校生になったら制服を着たいという夢があったので、不安よりも夢へ向かって頑張っているようでした。もちろん不安が無かったかと言えば嘘になります。これまで、一度も40人クラスの中に入って生活した事は無かったのですし、友達の作り方、関わり方、一切の助けはないのですから。
高校の担任の先生には、娘が6年間不登校だったことは伝えませんでした。防御線を張りたくなかったですし、もう絶対大丈夫という自信があったからです。
高校では、「初心者大歓迎」という言葉に押され、吹奏楽部に入部しました。楽譜も読めないのに大丈夫かしらと思っていたのですが、人間自分がやると決めたら何とかなるのでしょう。本当に何とかなってしまいました。文化祭では、40数人のメンバーに混じり、スポットライトを浴びて演奏する姿に「ああ、ここまで成長したのだな」と親としては、感無量でした。
今、娘は大学2年生です。改めて振り返ってみますと、私たち親子はたくさんの有難い出会いに恵まれてきました。出会ったたくさんの先生方が、今、目の前にいるこの親子にどう手を差し延べてあげようかと、考え寄り添ってくださいました。
不登校になった当初は、真っ暗なトンネルの中にいるようで、どこへ進んでいいものか全く分かりませんでしたが、たくさんの周りの方々に導いていただき、今ここにいるという気がします。この過程の中で、娘自身の成長も分かって、この子は将来必ず笑って生きているという、自信が湧いてきました。それは、映像として私の頭の中に常にありました。
今、学校へ通えないお子さんがいる保護者の皆さん。どうか、悲観的にならないでください。お子さんが家庭の中で居心地が良くなり、心に余裕がもてたらば「あれ、私はこれで良いのだな」と思えるときが必ずくると思います。
先日、娘がふと言った言葉です。
「周り(学校や先生)がどうかではなく、自分が踏み出そうと思うか思わないかなんだよね。」
その言葉の裏には、支えになる確固とした安心感があるか無いかなのだと私は思います。親が支えになり、周りを巻き込んで支えてもらいましょう。人は支えあって生きていくのだと思います。余裕があれば支える立場に、助けてほしいときには、支えてもらえばいいのです。そうすれば、子どもたちは、一歩一歩と進んでいくことができるのだと思います。